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布池だより 2019年 4月号 巻頭言

 

メタノイア(改心)せよ!

フランシスコ・ザビエル 平田豊彦 神父

わたし達は典礼暦(C年)において、今復活祭を迎える四旬節の只中にいます。この期間に読まれる福音は、四旬節第1では荒れ野でのイエスの誘惑(cf.ルカ、4,1-)、第2週では高い山でのイエスの変容物語(cf.ルカ9,28-)、第3週では実をつけないイチジクの木に忍耐の限界をあらわにする主人に執り成しする世話人の話(cf.ルカ,13,1-)、第4週には放蕩息子の譬え(cf.ルカ,15,1-)、第5週にはヨハネの福音書から姦淫を犯した女性が赦される話(cf.ヨハネ8,1-)が朗読され、最後に主の受難の朗読がルカのテキストで読まれていきます。

それではこの復活祭をより良い形で祝うために、どんな準備を心がけたら良いでしょうか?上記の四旬節中に読まれるみ言葉の前に、イエスが来られたのは「正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである」(cf.ルカ,5,32)ことがイエスの意思として明確に述べられています。私たちはイエスが言うように、救いに与るためにはイエスの福音を処方箋として精神・こころの健康を常に心掛けていかなければなりません。(cf.ルカ,5,31)

福音の処方箋を受けながら私たちに求められていることは、薬の効能が無駄にならないために、ときには節制、忍耐等が求められています。シラ書にこんな格言があります。どうせ罪は贖われるのだからといい気になって、罪に罪を重ねるな!また、罪を犯したが、何も起こらなかったと言うな、主は忍耐しておられるのだ。(cf.シラ5,4-5)さもなくば、第3四旬節の福音にあるように、いくら執り成す園丁の存在があっても主人の怒りに触れ、救いの恵みにあずかる機会を逸してしまいかねない。

従って、復活祭の喜びに与るためには、実効性のある改心の業に励みながら速やかに主のもとに立ち帰る日々の生活に努めていく必要があります。改心はギリシャ語でメタノイアです。言葉の偶然ですが、反対から読むとアイノタメと読めます。偶然とは言え改心することがアイノタメに何かをすると言う事を伴って初めて改心したことになることを意味しています。このことを数年前の黙想会で笑いながらお話しして下さった故浜口神父様を思い出します。神父様の分かり易い指摘に感謝しながら残り少ない四旬節を過ごして、主の復活の喜びに与れるように励んでまいりましょう。

 

布池だより 2019年 3月号 巻頭言

 

心の棘(とげ)

ミカエル マリア ヨゼフ 平澤 忠雄 神父

 毎日悠々と何不自由なく布池教会で司祭館を住居として昨年4月から過ごしてきましたが、私には聖パウロではないが、心の棘が一つある。
私が幼稚園児で6才位の時のこと。私の家の斜め向かいに「あまや」という屋号の呉服屋さんがあった。その家に「天谷正隆」という末っ子の男の子が居た。私と彼とは幼馴染の遊び仲間であった。
或る春のお昼近くのこと、私はそのまさたかちゃんと遊ぶ為に道路の此方側から「まさたかちゃん、うちに遊びに来ねの」と声をかけたら、「今いくざ、待ってねやー」と言って下駄を履いて走って出て来た。と、その時、私も彼も気づいてなかった美合いバスが西から東へゆっくり走って来たのだ。
まさたかちゃんは「あっ」と言う間にそのバスにひかれて即死だった。子供の私は母親とすぐ「あまや」さんに謝りに行ったが「こっちもあわてて走ったのが悪かったにやさけ、何もたーちゃんのせいだけではねんにやぁ」と言って許してくれた。あの静かな春の日の午前の出来事が私の心に突き刺さっている。
数年前の私の司祭叙階金祝のミサを布池教会で祝って貰った時に、私が説教するよう指命されて、一寸この、まさたかちゃんをバスで死なせたことに触れて話した。
最近、布池教会で近所のお子さんで文化センターに通っていたという9才の少年が流感で亡くなられ、そのお葬式があった。9才の少年は一体どんなことが心の走馬燈で見えたことだろう。私は彼の死のことで、今一度私の幼年の日のまさたかちゃんの死を思い出した。
私は今も、心の痛みと言うが、償いの心と言うが、やり切れない心の傷がうづくのを覚える。
私は彼の為にも司祭職を徹底して送って完成にもって行きたいと思う。心の棘が疼くのだから。

 

布池だより 2019年 2月号 巻頭言

 

結婚誓約更新式とクリスマス・メディテーション

アウグスティヌス 太田 実 神父

布池教会での結婚式を担当するようになって一八年になりました。
カトリック教会では結婚式に先立って必ず結婚準備講座が必要とされます。布池教会では四回の講座を行っております。
日本司教団が出した『非受洗者のための結婚』は、結婚を教会の宣教の一部と考え、挙式後もケアをすることが大切だと述べます。
結婚式を引き受けたときから、挙式後も教会として何かできないかと考えていました。一二年前、結婚生活が破綻する危機に直面したあるご婦人が、相手と布池教会でもう一度結婚式をしたいとご希望になり、聖マリア小聖堂でそのカップルの結婚誓約更新式をしました。そのことを結婚講座で話したところ、是非自分たちも行いたいと受講者の方々から希望されたので、毎年八月の最終日曜日の午後に結婚誓約更新式をすることになりました。昨年は三〇〇名以上の方々、カップルと子どもたち、カップルのご両親まで聖堂においでになりました。三年前から家族で手をつないで頂き「わたしたちは家族としてこれからも順境の時も逆境の時も、病気の時も健康の時も生涯愛と忠実を誓います」と約束をするようになりました。挙式部として行うもう一つのことは「クリスマス・メディテーション」です。布池教会で挙式したカップルに招待状をお出ししてクリスマスの雰囲気を味わって頂きます。毎年一二月二三日に行いますが、昨年は日曜日に重なったので二二日に開催しました。
このクリスマス・メディテーションは三部構成で、第一部は早川志づ江さんのオルガン演奏、第二部は聖書朗読とクリスマスメッセージ、第三部は永ひろこさんの指揮による東区の女声コーラス「コールリリアス」と「豊田少年少女合唱団」の卒団生有志のアカペララテン語聖歌です。
この企画は第一二回となり当日は三〇〇名以上のお客様をお迎えしました。
入場は無料ですが、毎年岐阜県中津川の麦の穂学園内乳幼児ホーム「かがやき」への献金をお願いしております。クリスマスに親と過ごすことのできないイエス様の弟や妹たちに贈り物を携えて二四日に訪問することができました。最近は重度の障害をもって生まれてきた赤ちゃんが保護されるようになってきたと園長先生はおっしゃっていました。ある子は排泄ができず、毎日導尿と浣腸をしなければなりません。でも、その子の顔はとても美しく、かがやいていました。
結婚式の仕事を頂いたことに心から感謝しています。今後も皆様のご理解とご協力をお願いします。

 

布池だより 2018年 クリスマス新年号 巻頭言

 

主のご降誕と新年のお慶びを申し上げます!

フランシスコ ザビエル 平田豊彦 神父

 「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、・・・」のエレミアの預言で始まった新しい教会歴(C年)。初めに迎えるのが待降節を通して、希望と喜びの内にキリストの誕生を祝う主のご降誕・クリスマスです。

イザヤはクリスマスの喜びを「闇の中を歩む民は、大いなる光を見」(イザヤ9,1)ると告げています。闇の中を歩むとはどんなことなのでしょうか?人生には様々な困難があります。そんな中で、この夏タイで起こった事件を思い起こします。ある少年サッカーチームがチームメートの誕生日を祝うために入った洞窟で出口を見失って、10日間にわたって閉じ込められてしまったニュースはまだ記憶に新しいと思います。コーチを含め13名の子供たちが奇跡的に世界中から駆けつけた救命の専門家チームによって救出されるまで世界中の人々の心配の目が注がれました。幸いにして全員救出されましたが、残念ながら救命チームの一人の尊い命が失われる犠牲を伴ってしまいました。その後のTV報道で、食べ物もなく、暗闇の中で十日間を洪水の恐怖感が増す中でどうして生き延びることが出来たのか当人達へのインタビューを交えてその謎に迫るTV番組が放送されました。彼らの証言によればその間互いに励まし合いながら洞窟の水以外に食べ物もない中で、救助は必ず来ると信じて待ち続けることが出来たことが一人も欠けることない救出劇につながったとのことでした。深刻な洞窟内の洪水の様子から奇跡としか思えない生還でしたが、それを実現できたのは彼らのチームワークで互いを思いやりながら支え合う心でした。それが暗闇に一条の光を見出す強い絆となって救助の手を冷静に待つことが出来たとのことでした。

キリストの誕生を待ってクリスマスを祝うということは、真っ暗闇の洞窟で必ず救助の手はやってくるのだとの希望を持ち続けた少年たちのように、わたし達も「平和の君」(cf.イザヤ9,5)であるキリストによって必ず真の平和はもたらされるのだとの信念を持ち続ける必要があることを教えてくれているのではないだろうか。

新しい典礼暦ではルカ福音書が中心に読まれていきます。幼な児の誕生の次第についての描写はルカ福音書が詳しく述べているので読まれることが多いのですが、今年は典礼暦Ⅽ年のサイクルに当たるので一年を通してクリスマスの神秘をルカの特徴でもある私たちの身近に住まわれるイエスの存在を味わいながら目覚めて主人の帰りを待つ僕のような信仰でありたいものです。

 

布池だより 2018年 11月号 巻頭言

 

キリスト教の死生観

フランシスコ ザビエル 平田豊彦 神父

教会では11月は典礼歴の最後の月で、すでに亡くなった人を記念する月として大切にしています。
この死者の月は諸聖人の祝日をもって始まり、キリストの王である祭日を祝って典礼暦の一年を締めくくります。これには大事な精神的な意味が込められています。私たちの信仰生活の目的が神に召されるとき諸聖人の列に加えられることを願いつつこの世を生きることにあります。私たちの死亡率は100パーセントである。これからは誰も逃れることはできません。日本には古くから人の死生観として江戸時代の後期に活躍した曹洞宗の僧侶で歌人でもあった良寛和尚の辞世の句「うらをみせ おもてみせて ちるもみじ」の歌で人の死生観を美しく表現しているとよく言われます。それに対して私たちキリスト教の死生観はどうでしょうか?前述の良寛和尚の歌と何が違うのでしょうか。誰の死にも死ぬことへの恐怖感は伴います。その恐怖感をどう乗り越えるのかに宗教の果たす役割があると言えるでしょう。私たちキリスト信者にはその恐怖感を払拭するためにイエスが十字架を背負って下さったという信仰があります。この信仰が私たちの死生観に大きな意味をもたらしてくれています。この信仰の中で死と向き合うことでその恐怖感から解放されるのです。それはプールの縁で飛び込むのを尻込みしている我が子をプールの中から励ましながら両手を広げて飛び込む恐怖心から解放して信頼する父親の腕の中に飛び込むさまに例えることが出来るのではないでしょうか。それを良寛和尚の歌で表現すれば散っていくもみじの葉がその先に受け手である主のみ手の中にソフトランディングしていくイメージです。ここにキリスト教の明確な死生観があります。聖書には「わたしたちは死からいのち(死ぬことない命=復活の命)へと移ったことを知っています」(cf.Ⅰヨハネ3、14)とこの世の死が全ての終わりではないことを明確に記しています。これこそ主イエスが生前弟子たちを通して言われた「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(cf.ヨハネ11,25)と宣言されたキリスト者の信仰です。
この信仰を典礼暦を通して記念しながら、確認し共に復活への信仰を新たにし最後の祭日である「王であるキリスト」を記念することは、わたし達一人一人に課せられた大事な使徒職ではないでしょうか。今年の祭日には餅つきをして私たちの信仰の最も大切なテーマ「キリストの復活の命」にあずかる毎日を確認できるひと時としてお祝いしたいものです。

 

布池だより 2018年 8.9月号 巻頭言

 

アンパンマンの正義

アウグスティヌス 太田 実 神父

 二〇一三年に九四才で亡くなった「やなせたかし」さんは、アンパンマンの生みの親です。そのやなせさんが『僕は戦争は大きらい』という本を出版しています。やなせさんは戦争のことを話すのもきらいだったのですが、九〇才を越えて、ご自分のまわりには戦争体験を語れる人がほとんどいなくなったためにあえて本を出すことにしたそうです。
その本の冒頭で、「戦争を語る人がいなくなることで、日本が戦争をしたという記憶が、だんだん忘れ去られようとしています。人間は、過去を忘れてしまうと同じ失敗を繰り返す生き物です。」と書き付けています。
アンパンマンが誕生した経緯はよくご存じかも知れませんが、あらためてご紹介させていただきます。
初代「アンパンマン」は大人向けの童話だったのです。三四才で漫画家デビューしたやなせさんでしたが、ヒット作に恵まれない中、童話を出版します。
それは、小太りのマント姿のおじさんが子どもにアンパンを配る話でした。やがて戦争が起こり、子どもたちが飢えて死にそうになった時、おじさんが空を飛んできて、マントから焼きたてのパンを落とします。そして「しっかりするんだ。死んじゃいけない。わたしは何度でもパンを運んでくるぞ」と力づけます。ところがおじさんは敵の飛行機と間違えられて高射砲で撃たれてしまうのです。
この物語は、やなせさん自身の戦争体験から生まれました。二四才で中国に出兵したやなせさんは、飢えに苦しみながらも戦争の正義を信じて戦いましたが敗戦を境に正義が一変する体験をします。
それに衝撃を受けたやなせさんは「正義のための戦いなんてどこにもないのだ。正義はある日、突然反転する。逆転しない正義は献身と愛だ。目の前で飢え死にしそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えることだ」と確信します。
献身と愛、「自らが傷つくことなしに正義はなしえない」。
本当の正義はひもじい人にパンを配ることです。やがてアンパンマンはアンパンそのものになり、自分の頭をちぎって配ることになります。
高齢と様々な病気に冒され、引退を考えていた矢先東日本大震災が起こります。避難所で子どもと親を力づけたのはアンパンマンのアニメでした。
教皇フランシスコが配るように指示した写真は心に突き刺さります。「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。」(ヨハネ・パウロ二世)

 

布池だより 2018年 7月号 巻頭言

 

しるしから学ぶ!

フランシスコ ザビエル 平田豊彦 神父

 今年は例年に比べ早い梅雨入りとなりましたが、雨も少なく、雲の合間に現れる晴れ間には強烈な太陽の日差しで日焼けをしてしまう日もありました。カレンダーでは夏の始まりである夏至(6月21日)はもうすぐそこでした。太陽の日差しが強まるのにも当然だと思いました。

季節の変わり目はそれ以外にもハッキリと自然界では認められます。先日、教会の用事で京都に新幹線で出かけてきました。その車窓からは水を張った水田に早苗が風に揺られる隣で、黄金色に色づいた麦の刈り入れが最盛期を迎えていました。聖書の世界での刈り入れの福音を思い出しました。確かに、パレスチナと同じ北半球に位置することを考えれば日本での小麦の収穫は多少のズレはあると言え当然とも言えます。ただ、日本での主食がパンではなく米食であるため、小麦の収穫の話が秋のお米の収穫の話の陰になって目立たないのも事実である。このように自然界では確実に次の季節を準備しながら推移しています。

典礼歴は現在、祭服の色で表現すると年間の緑の季節を過ごしています。年間は一番長い期間(33週)です。果たしてどんな動機を持ってこの長い期間の信仰生活を送っていけば良いのでしょうか。年間の典礼のストラは緑色です。どんな意味があるのでしょうか。聖書の中で緑はノアの方舟に時に鳩がくわえてきたオリーブの若枝(cf.創8,11)の色を表しています。この枝は人々に地上での生活が出来る希望をもたらしました。このことを私たちの今の信仰軸で捉えて表現すると、復活の命(神の命)に招かれる希望に支えられて今を生きていくことになります。

自然界の梅雨の季節は毎日の生活では厄介なことではあるが、酷暑の夏、実りの秋を迎えるためにはこの梅雨を乗り切っていかなければなりません。健康的にはジメジメ季節でカビ臭くなりますが、その最中に夏の到来を告げる夏至があります。それはもう辛い時期からの解放が近いことのしるしでもあります。それを明日を生き抜くしるしと出来るか出来ないかで今を生きていく生き方が変わってくるかと思います。私たちの信仰生活がこの自然界からの示唆に富んだ英知に学んで、しるしと受け取って今を生きていくことができますように祈りたいものです。

 

 

布池だより 2018年 6月号 巻頭言

 

イエズス様の引越し、私の引越し

ミカエル マリア ヨゼフ 平澤忠雄

 イエズス様の天国への引越しがあってそのあと、弟子達の上に聖霊が注がれて教会の誕生となったってことは皆様よく御存知の通りですよね。
所で私の布池教会への引越しは、1月の終わりの週頃、松浦司教様ご自身で車で守山教会にお見えになって、狩浦神父様が仙台教区の教会に行かれ、神言会の司祭も司祭館に留められず、日曜毎に通って来られることになり、「是非とも、平澤神父さんに「布池」に来ても貰わねばなりません。」とのことでした。
私はマリア様の様に「はいそうですか、まいります」と軽く返事をしたものの「大変なことになったなぁ!」とすぐに思いました。
思えば1963年に福井教会で松岡孫四郎司教様から司祭に叙階されて、布池教会に7年、司教館に20年、福井の大野に10年、春日井の高蔵寺に13年、そして守山に6年という経緯を巡って来たのでした。
今年は私にとって結婚の記念で言うと叙階55年(6月9日)はエメラルド・ジュビリーと言うそうです。あと5年経過したらダイヤモンド祝とゆうことですが、そこまで布池で長生きできるかな?「田舎司祭の日記」の作者ベルナクスなら、「そんなことはどうでもいい、すべては恩寵だ」と言われるそうです。
私としては、とにかく何とか主任平田神父様の迷助任としてボツボツ毎日を丁寧に大事に過ごそうと思っています。
老い先短いと思いますので、日々の祈りをカンヅメにして、慎重に大切に時間を使おうと思っています。布池教会の皆様、お手柔らかにお願い致します。
「布池教会だより」の前号の「テーマ」に一影響され過ぎた文章になりました。
あしからず。

 

布池だより 2018年 5月号 巻頭言

 

レット・イット・ビー(Let It Be)

アウグスティヌス 太田 実

 松浦司教とご兄弟の「ビートルーズ」は、いろいろな機会で演奏を披露し、大喝采を受けています。
私もビートルズ世代ですが、中でも「レット・イット・ビー」は大好きな曲です。歌詞がどうなっているのか気になってインターネットで検索してみると、一番の歌詞は、

When I find myself in times of trouble
ずっと悩んで苦しみ抜いたときに
Mother Mary comes to me
僕のもとに女神がやってきたんだ
Speaking words of wisdom, let it be
そしてこんな言葉を呟いた 素直に生きなさい
And in my hour of darkness
すべてが暗闇に包まれたとき
She is standing right in front of me
彼女は僕のすぐそばに立っていた
Speaking words of wisdom, let it be
そしてこう呟いたんだ 素直に生きればいいと

どうも翻訳がおかしいと思い、英語の聖書で確かめると、天使ガブリエルがマリアにイエス誕生のお告げをするシーンで、マリアが天使に答える言葉は、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ一・38)ですが英語では、”Behold the maidservant of the Lord! Let it be to me according to your word.”となっています。

「マザー・メアリー」は、「女神」ではなく、聖母マリアであり、「レット・イット・ビー」は、「素直に生きればいい」ではなく、「(お言葉どおり、この身に)成りますように」なのです。
ビートルズは、もともと貧しいリバプールのアイリッシュ・カトリックだったと聞いたことがあります。
天使の受胎告知によって、聖母マリアの生涯は、それまでとは全く異なるものとなりました。身重のエリザベットはマリアの突然の訪問を受けて、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(一・45)と祝福します。
イエス様の誕生から十字架上のイエスの死にいたるまで、聖母マリアの人生は波乱に満ちたものでした。福音書には聖母マリアが、復活されたイエス様に出会った様子がありませんが、イエス様の復活後、弟子たちともに祈っておられました(使一・14)。
「自分の望み通りになることが幸せ」なのではなく、苛酷な運命にありながらも、「神のことばどおりになるように」と信じることが幸せなのだと聖母マリアは身をもって教えて下さいます。

布池だより 2018年 3月号 巻頭言

 

主キリストのあわい(身)

ドミニコ 狩浦正義

 長い長い神の沈黙の時代の終わりを告げるかのように、主イエスのみことばはガリラヤ地方のふる里とするユダヤ住民たちをはじめ、寄留する異邦人のこころを動かし始める。「時が来ました。神の国(支配)が始まりました。いのちと愛の光が輝いています。」と。

混沌とした非人間的状況の罪の現実からの解放を告げ、健やかな神の像としての人間の姿こそ神の栄光だと力強く宣言し、いのちの関わりである福音の喜びにすべての人を招くイエスの日々です。いのちの主との出会いは、私たちをさまざま縛り現実を直視できずにいる思いから解放し、苦しみを神からの罰としてではなく、いつも味方しておられる主イエスへの信仰に開いて下さるのです。私たちが愛の神を信じ自由の身となることで、人間の尊厳を取り戻すいつくしみのまなざしを確かなものとするのです。

新しい私たちに気づく経験こそ主イエスとの関わりを聖なるそして深い交わりへと向かわせ、信仰の奉仕を喜びに変えてくれるのです。「座って物乞いする盲人」(ヨハネ9章)がイエスに癒され<見えなかったわたしが、今見える>という経験は、まことのいのちの火(ヒ)が留(ト)まる<ヒト=人>になれとの主のあわいの招きではないでしょうか?皆から無意味な者、無視されていた盲人は、しっかりと立ち、イエスに<主よ、信じます>と告白し、神の愛の外にあるものは何もない人生を歩み始めます。主イエスの後を追って・・

主イエスのあわいに学び、人生のすべてを言葉(コトバ)で水俣病、患者の隣る人であり続けたカトリック信者でない、ひとり女性を皆様ご存知だと思いますが紹介させて頂きます。石牟礼道子さんです。天草で生まれ、その後水俣に移り住み、水銀汚染による水俣病患者はじめ、水俣病公害すべてにまなざしを向けつづけた生涯でした。水俣を「秘跡の地」として寄り添う道子さんの身振りは<あわい>そのものであり、水俣病で言葉を奪われ(神経の障害のため)語り得ない人々の悲痛な思いと言霊(ことだま)を<あわいの身ぶり>で演じるワキのような人生でもありました。<あわいの身>に留まる<もやい>と<のさり>という言葉こそ、道子さんが水俣病の身体とひとつになるいのちの出会いでもあったと思います。<のさり>は豊漁のことで、天からたまわれるものであり、病苦のみならず迫害や差別さえのさりと思えと分ち合う水俣の人々です。<もやい>は離れてしまうものをつなぐ、つながりのことです。

四旬節のただ中において、さまざまな困難の歴史にいる私たちですが、イエスの復活に希望を持ち超史をしっかりと読み解くことで、あわい(身)の場で神の国をあらたにしていきたいものです。