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布池だより 2018年 5月号 巻頭言

 

レット・イット・ビー(Let It Be)

アウグスティヌス 太田 実

 松浦司教とご兄弟の「ビートルーズ」は、いろいろな機会で演奏を披露し、大喝采を受けています。
私もビートルズ世代ですが、中でも「レット・イット・ビー」は大好きな曲です。歌詞がどうなっているのか気になってインターネットで検索してみると、一番の歌詞は、

When I find myself in times of trouble
ずっと悩んで苦しみ抜いたときに
Mother Mary comes to me
僕のもとに女神がやってきたんだ
Speaking words of wisdom, let it be
そしてこんな言葉を呟いた 素直に生きなさい
And in my hour of darkness
すべてが暗闇に包まれたとき
She is standing right in front of me
彼女は僕のすぐそばに立っていた
Speaking words of wisdom, let it be
そしてこう呟いたんだ 素直に生きればいいと

どうも翻訳がおかしいと思い、英語の聖書で確かめると、天使ガブリエルがマリアにイエス誕生のお告げをするシーンで、マリアが天使に答える言葉は、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ一・38)ですが英語では、”Behold the maidservant of the Lord! Let it be to me according to your word.”となっています。

「マザー・メアリー」は、「女神」ではなく、聖母マリアであり、「レット・イット・ビー」は、「素直に生きればいい」ではなく、「(お言葉どおり、この身に)成りますように」なのです。
ビートルズは、もともと貧しいリバプールのアイリッシュ・カトリックだったと聞いたことがあります。
天使の受胎告知によって、聖母マリアの生涯は、それまでとは全く異なるものとなりました。身重のエリザベットはマリアの突然の訪問を受けて、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(一・45)と祝福します。
イエス様の誕生から十字架上のイエスの死にいたるまで、聖母マリアの人生は波乱に満ちたものでした。福音書には聖母マリアが、復活されたイエス様に出会った様子がありませんが、イエス様の復活後、弟子たちともに祈っておられました(使一・14)。
「自分の望み通りになることが幸せ」なのではなく、苛酷な運命にありながらも、「神のことばどおりになるように」と信じることが幸せなのだと聖母マリアは身をもって教えて下さいます。

布池だより 2018年 3月号 巻頭言

 

主キリストのあわい(身)

ドミニコ 狩浦正義

 長い長い神の沈黙の時代の終わりを告げるかのように、主イエスのみことばはガリラヤ地方のふる里とするユダヤ住民たちをはじめ、寄留する異邦人のこころを動かし始める。「時が来ました。神の国(支配)が始まりました。いのちと愛の光が輝いています。」と。

混沌とした非人間的状況の罪の現実からの解放を告げ、健やかな神の像としての人間の姿こそ神の栄光だと力強く宣言し、いのちの関わりである福音の喜びにすべての人を招くイエスの日々です。いのちの主との出会いは、私たちをさまざま縛り現実を直視できずにいる思いから解放し、苦しみを神からの罰としてではなく、いつも味方しておられる主イエスへの信仰に開いて下さるのです。私たちが愛の神を信じ自由の身となることで、人間の尊厳を取り戻すいつくしみのまなざしを確かなものとするのです。

新しい私たちに気づく経験こそ主イエスとの関わりを聖なるそして深い交わりへと向かわせ、信仰の奉仕を喜びに変えてくれるのです。「座って物乞いする盲人」(ヨハネ9章)がイエスに癒され<見えなかったわたしが、今見える>という経験は、まことのいのちの火(ヒ)が留(ト)まる<ヒト=人>になれとの主のあわいの招きではないでしょうか?皆から無意味な者、無視されていた盲人は、しっかりと立ち、イエスに<主よ、信じます>と告白し、神の愛の外にあるものは何もない人生を歩み始めます。主イエスの後を追って・・

主イエスのあわいに学び、人生のすべてを言葉(コトバ)で水俣病、患者の隣る人であり続けたカトリック信者でない、ひとり女性を皆様ご存知だと思いますが紹介させて頂きます。石牟礼道子さんです。天草で生まれ、その後水俣に移り住み、水銀汚染による水俣病患者はじめ、水俣病公害すべてにまなざしを向けつづけた生涯でした。水俣を「秘跡の地」として寄り添う道子さんの身振りは<あわい>そのものであり、水俣病で言葉を奪われ(神経の障害のため)語り得ない人々の悲痛な思いと言霊(ことだま)を<あわいの身ぶり>で演じるワキのような人生でもありました。<あわいの身>に留まる<もやい>と<のさり>という言葉こそ、道子さんが水俣病の身体とひとつになるいのちの出会いでもあったと思います。<のさり>は豊漁のことで、天からたまわれるものであり、病苦のみならず迫害や差別さえのさりと思えと分ち合う水俣の人々です。<もやい>は離れてしまうものをつなぐ、つながりのことです。

四旬節のただ中において、さまざまな困難の歴史にいる私たちですが、イエスの復活に希望を持ち超史をしっかりと読み解くことで、あわい(身)の場で神の国をあらたにしていきたいものです。

布池だより 2018年 2月号 巻頭言

 

God’s Embrace 神の抱擁(ほうよう)

フェルディマール・バカリサ・ファミニアラガオ

「楽園はおとぎ話に登場する場所でも、心を魅了する庭でもありません。楽園とは、永遠の愛である神の抱擁です。わたしたちのために十字架上で死を受け入れたイエスによって、わたしたちはそこに入ることができます。」

これは教皇フランシスコ、2017年10月25日一般謁見演説からの言葉です。一般謁見の後、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂でミサが行われました。そこにはthe relics of the Holy Crib(幼子イエス様を寝かせるベビーベットのこと)が飾られていました。ミサの後、私達はローマ司教である教皇の司教座聖堂、ラテランの聖ヨハネ大聖堂に行きました。

2011年6月21日にベネディクト教皇はフィリピンのマイナー・バシリカ・オブ・アワー・レディー・オブ・ザ・ロザリー・オブ・マナオアッグを訪れる巡礼を聖年の特別な免償をみとめる教皇勅書を発表されました。

翌日はサン・ジョバンニ・ロトンドまで足を延ばしました。ピオ神父はフィリピンで人気がありますから、私はこの日を楽しみにしていました。私達は聖パードレピオ神父がミサを執り行われたサンタ マリア デッレ グラツィエ教会で、ピオ神父の聖遺物から特別な祝福をいただきました。その喜びのあまり、記念写真を撮るのを忘れてしまったほどでした。次の日はサンテルピーディオの聖心のイエス教区のみなさんとミサと昼食を共にして交流してから、イエスがマリア、ヨセフとともにナザレで暮らした家「サンタ・カーザ(聖なる家)」と「ロレートの聖母」と呼ばれる黒いマリア像があるロレートを訪れました。

最終日はアッシジで過ごしました。フランシスコ修道院でのミサ後、サン・フランチェスコ大聖堂、サンタ・キアラ聖堂、天使たちの聖母マリア大聖堂(サンタ・マリア・デリ・アンジェリ)、聖フランシスコが神の声を聞いたサン・ダミアーノ聖堂、聖フランシスコと聖クララが洗礼を受けたサン・ルフィーノ大聖堂を訪れました。

昨年、イタリア巡礼のリーダーのお誘いをいただいたときには、私は2020年にイタリアを訪れるのを計画していたので、お断りしました。しかしそのお誘いは聖霊の導きだと感じました。実際に、すばらしい冒険の旅となりました。この経験はカトリック教会、その遺産と伝統に私を強く結びつけるものでした。とりわけ重要だったのは特別な恩寵を受けたことです。巡礼は単にその地を訪ねることではありません。それ自体が恩寵なのです。聖霊によって導かれた巡礼者への恩寵であり、神の完全なるときのなかで与えられたものです。まさに本当の天国であり、神の抱擁なのです。The Basilica of St. John Lateran is the cathedral of the diocese of Rome, the official ecclesiastical seat of the Holy Father, the Bishop of Rome, not St. Peter’s Basilica as so many mistakenly believe. Thus, Lateran Basilica is the mother and head of all the churches of the city and the world.

 

 

“Paradise is not a fairytale place, much less an enchanted garden. Paradise is the embrace of God, infinite Love, and we enter there thanks to Jesus, who died on the Cross for us.” Those were some of the words Pope Francis said during his General Audience on the 25th of October 2017; the first audience I have ever attended.

After the General Audience, we had Mass in Basilica of Saint Mary Major. Here the relics of the Holy Crib are exposed. On 21 June 2011, Pope Benedict XVI issued a Papal bull granting equal indulgences of the basilica for pilgrims who travel to the Minor Basilica of Our Lady of Manaoag in the Philippines. After the Mass we went to the Archbasilica of Saint John Lateran the cathedral of the diocese of Rome, the official ecclesiastical seat of the Pope, the Bishop of Rome. Thus Lateran Archbasilica is the mother and head of all the churches in the world.

The next day, we traveled to San Giovanni Rotondo. I looked forward to this day because of the popularity of Padre Pio in the Philippines. We had Mass in the altar where Saint Padre Pio Pietrelcina celebrated Masses in Santa Maria delle Grazie. Everyone also received a personal and special blessing from Padre Pio’s relics. All were so blessed that no one remembered to take a picture of the event.

The following day, we had Mass, fellowship and lunch with the parishioners of Sacred Heart of Jesus in San Elpidio. And then we visited Loreto where the Holy House and the Black Madonna are enshrined.

The last day was spent in Assisi. After our Mass in the Franciscan Monastery, we visited the Basilica of Saint Francis; the Basilica of Saint Clare; Basilica of Saint Mary of the Angels; San Damiano, where Saint Francis heard an exhortation from Christ; and the Cathedral of Assisi where Saints Francis and Clare were baptized.

When I was invited to lead the pilgrimage to Italy last year, I brushed off the suggestion since I already planned to go to Italy on 2020. But I felt an inner tug that I thought just might be the Holy Spirit. It was an amazing adventure! The experience bonded me to the Catholic Church, her heritage and her rich tradition, in a very profound way. Some friendships were deepened and many new friends made. But the most important thing was a gift of special grace. Pilgrimage is about more than the place. It is about the grace. A special grace designed for each pilgrim by the Holy Spirit, imparted in God’s perfect time. Indeed, a real paradise, an embrace of God.The Basilica of St. John Lateran is the cathedral of the diocese of Rome, the official ecclesiastical seat of the Holy Father, the Bishop of Rome, not St. Peter’s Basilica as so many mistakenly believe. Thus, Lateran Basilica is the mother and head of all the churches of the city and the world.

布池だより 2017年 クリスマス・新年号 巻頭言

 

主のご降誕と新年のお慶びを申し上げます!

フランシスコ・ザビエル 平田豊彦

 教会歴では新年度に入って4週間の準備の期間を経てクリスマスを迎えます。クリスマスで第一に祝われることの意味は、神(みことば)が人となった受肉の神秘であります。聖書に「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また、多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました・・・御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」(cf.ヘブ1,1-3)とヘブライ書の冒頭で語られている通りです。また、その御子の誕生は、闇の中を歩んでいる人や死の陰の地に住む者にとっては大いなる光として輝く(cf.9,1)とイザヤが預言しているように、全ての人々にとって大きな喜びとなり、「平和の君」(cf.イザヤ9,5)と唱えられるのです。このことからもクリスマスが世界中の人々の中で祝われる理由があるのです。

また、クリスマスはイエスをキリスト(救い主)と信じる者にとっては終末論的意味合いがあるのです。イエスの誕生は私たち人類の救いの計画がキリストの再臨をもって完成される時まで私たちが信仰生活において希望をもって生きていくことで全うされていきます。では、どんな終末論的な希望なのでしょうか?

昨年、教皇フランシスコはイタリアの児童たちとの集いにおいて、平和の工場などありません。平和は毎日作り出していくものですと子供たちに語られました。平和が脅かされている昨今、真の平和の実現のために、私たちに求められていることは何か?それを具体的に私たちの中で示してくださったのが幼な子イエスの生き方そのものであると言えるでしょう。

イエスの生き方は争い(戦争)の具である剣と槍を生活・平和の具である鎌と鋤に鋳変えてこそ真の平和は実現できることを教えてくださいました(cf.イザヤ2,4)。それには只ならぬ勇気と信念が求められることを、

十字架を前にしてゲッセマニの園での祈りの中で弟子達を通して「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(cf.マタイ26,52)と教えられました。この価値観の転換こそがこの世の陥りがちな人間の力による抑止力の妄想に打ち勝つ道ではないでしょうか。

どうかクリスマスの真の精神が一人でも多くの人の今日・明日を生きていく希望の源となり、主の再臨に向かって祈りの内に、目覚めていることが出来ますようにと祈ります。

 

布池だより 2017年 11月号 巻頭言

 

メメント モリ(死を覚えよ)

アウグスティヌス 太田 実

二〇一五年まで金城学院学院長を務められたホスピス医の柏木哲夫先生の講演を聴く機会がありましたので、ご紹介したいと思います。

生の延長上に死があるのではなく、わたしたちは日々死を背負って生きている

元気なときにはわたしたちはなんとなく生の延長上に死があると思いこんでいます。しかし、わたしたちの生は実にもろいものでありまして、いつ生が死に裏返るか誰にも予測はつかないのです。生と死は一枚の紙の表と裏と言うことができます。日本人は年間に九〇万人ほど死亡しますが、そのうちガンで死ぬのは三分の一の割合です。つまり、三人の人がいれば一人はガンでなくなると言うことなのです。しかもガンにかかるのは、ちょうど定年のころ、やっと人生に一段落がつき、これから余生を謳歌しようとした矢先のことが多いのです。これをわたしは「ヤサキ」症候群と呼んでいます。すべきことや、したいことを先延ばしにすると、この「ヤサキ」症候群に陥る危険があります。

人は生きてきたように死んでいく

末期ガンということになりますと、それまで生きてきたその人の人生が凝縮した形で現れてきます。感謝して生きてきたかたは感謝のうちに、不満・不平ばかりを漏らしてきたかたはそのようになくなっていくのです。逆に言えば人は生きてきたようにしか死ねないと言う

のが正しいのです。もちろんこれは事故死や突然死と言ったことをのぞきます。

魂の平安と再会の希望

人はさまざまなものを身にまとって生きています。まとうものは単に衣服にとどまりません。地位や名誉といったものもまとって生きるのが人間です。しかし、ガンの末期にはまとったすべてのものがはげ落ち、いわば魂が剥き出し状態になります。患者さんは和解に失敗すると、激しい魂の痛みを感じます。こうした意味でも魂の平安を得ることが望ましいわけですが、そこには再会の希望というものもあるのだと思います。いずれまたお会いするのだという希望がある場合と、死後どうなるか分からない不安の中にいる人とでは全く様子が異なります。わたしがお見送りをしたあるおばあさんは、その最期に、「行ってきます。先生もまた来てくださいね」といって召されました。思わずそのときわたしは「はい、後から参ります」とお答えしましたが、患者さんを看とるものの姿勢はこれに尽きると思っております。

「わたしは復活であり、いのちである。

わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

(ヨハネ一一・二五)

布池だより 2017年 10月号 巻頭言

 

Mary’s Presence in Us 私たちのなかの聖母マリア

フェルディマール・バカリサ・ファミニアラガオ

10月はロザリオの月です。

ロザリオは私たちに、この上ない慰めをもたらします。

キリストと聖母マリアの生涯の神秘を思い、私たちは聖母マリアを讃えて祈りを唱えます。

喜び、悲しみ、栄光、光にみちた聖なるロザリオの神秘は、私たち自身の人生の神秘でもあります。

6月の最終週に「ファティマの聖母の出現」100周年を祝って、教皇フランシスコに祝福されたファティマの聖母像の一つを、名古屋教区の教会と修道院がお迎えしました。

私はこの御像をカトリック多治見教会で見ることができました。

8月26日には、愛知県と岐阜県在住のフィリピン出身の方々の「富士の聖母」への巡礼に、私も司祭として同行しました。私たちは聖堂でごミサを捧げ、バスで移動中もロザリオの祈りを20回、天使祝詞を1000回唱えました。9月3日には英語ミサで「イエスとマリアの御心」を讃える祈りを唱え、ミサの最後には、カルメル山の聖母のスカプラリオがミサに出席した皆さんに渡されました。

ロザリオの祈りを唱えて、聖母マリアに私たちをイエスに近づけて下さるように祈りましょう。多くの聖人にとってロザリオは日々の祈りのなかで不可欠なものだったということを思い起こして、10月はロザリオの祈りを共に捧げましょう。

神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎えるときも、お祈りください。アーメン。

 

Mary’s Presence in Us
October is the Month traditionally dedicated to the Holy Rosary of the Blessed Virgin Mary. What consolation the Rosary brings! Remembering the mysteries of Christ’s life and Our Lady’s life, we repeat Hail Mary after Hail Mary. Indeed, the mysteries of the Holy Rosary – Joyful, Sorrowful, Glorious and Luminous – are the mysteries of our own lives as well.
On the last week of June, one of the six statues of Our Lady of Fatima which was blessed by Pope Francis
visited some churches and a convent in Nagoya Diocese. This is in celebration of the 100th Anniversary of the Fatima Apparitions. I was able to see the image when it went to Tajimi Church. On August 26, Filipinos from Aichi and Gifu Prefectures had their pilgrimage to Our Lady of Mount Fuji. I joined the group as a chaplain.
We celebrated the Mass in the Shrine, and while on the bus we were able to pray the 20 Mysteries of the
Rosary and another 1000 Hail Mary’s. On September 3, during the English Mass, a special prayer in honor of the Hearts of Jesus and Mary was recited. At the end of the Mass, Scapulars of Mount Carmel were distributed to all who came to celebrate the Mass.
As we pray the Rosary, let us beg Our Lady to draw us closer to Jesus. Remember, for many saints the
Rosary was an indispensable part of their daily prayer. And so, try to make a more concerted effort to pray the Rosary during this month of October Holy Mary, Mother of God, Pray for us sinners, now and at the hour of our death. Amen.

 

布池だより 2017年 8・9月号 巻頭言

 

お盆の季節

フランシスコ・ザビエル 平田豊彦

 九州での大雨による災害で大自然の脅威をまざまざと知らしめられたと思ったら梅雨末期の集中豪雨で布池教会周辺は道路が完全に冠水して、教会のエレベータ棟の地下にも浸水して、地下ピットまで水浸し、水深40~50センチまでに達して機械の制御盤が水没して完全に故障してしまった。復旧に時間も費用も掛かり大変な騒動となった。

もうこれ以上の災害が起こらないことを願いながら、夏本番を迎えたいものです。

さて、日本の夏には8月15日のお盆を挟んで、特別な時間を過ごす精神文化がある。カトリック教会では8月15日は聖母被昇天をお祝いしますが、そこで亡くなった方々を記念することはとてもふさわしいことです。

町の郊外に出ると現在でもお盆を挟んで迎え火や送り火を玄関先で焚いて亡くなった人(精霊)に対する光景を目にすることがある。都会のマンションや集合住宅では出来なくなりましたが、郊外の一軒家などでは小さな火を焚いたり軒先に提灯を吊るしたりして、古くからの精神文化が大切に守られている。ですから教会においても聖母被昇天をお祝いしながら亡くなった人との精神的一致を強め、特別な祈りを捧げることは大変意味深いことなのです。「先祖と死者についてのカトリック信者の手引き」(cf.p23カトリック中央協議会)

布池教会ではお盆の時期が日本の教会全体で取り組んでいる真の平和のために特別に祈る平和旬間に行動的に参加するために、合同慰霊祭をこのお盆の時期から11月の死者の月に移動して行うことに昨年からなりました。しかし、個別にお盆に合わせて故人のために祈りを捧げることは、キリストが御父の意思を受けて、肉となり、私たちのうちに住んでくださり、すべての人をご自分のもとに引き寄せるために、十字架の死と復活を通して私たちに救いの道筋を明確に示してくださったことからしてとても相応しいことだと思います。ですから、すべての人が世の終わりに主の復活と栄光にあずかるように祈ることは私たち教会のむしろ使命であるとも言えます。

また、今年のお盆の時期には名古屋教区で様々な平和旬間プログラムに加え、布池教会の所属する城北ブロック主催の平和旬間プログラムもあります。それぞれにおいて参加の機会を意識的に作りながら真の平和の実現に向けて祈りの内に過ごすモティベーションを持ちながらこの期間を迎えたいものです。

布池だより 2017年 7月号 巻頭言

 

希望:未来の記憶に抱かれて

ドミニコ 狩浦正義

 信仰者である私たちであっても、神の言葉に誠実に耳を傾け誠実に付き従うことが困難になる時がしばしば訪れる。

信仰は常にたしかな安心に支えられた気軽な経験であるとは限らない。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」(ヘブライ.11a1)アブラハムのように<行き先きを知らずに>旅立つことのできる信頼のことを信仰といい、約束してくださる神の誠実さだけが支えである。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれ見て喜びの声をあげました」(ヘブライ11の13)信仰は暗い今を誠実に生きるために十分な確信を支えるからである。

主イエスは<小さな群れ>である私たち神の民に<御父が喜んで神の国をくださる>と約束される。それは神が私たちの歩みを共にするとの宣言であり、恐れることなく歩むための、即ち約束を信じるための保証である。しかし、約束は今、直接に触れることのできる現実でないのである。主イエスは「主人の思いにそって」行動し、目を覚まして主の到来に備えるように招かれている。換言すれば、信仰とは<成就する将来の約束を希望の内に今経験することである>

未来の約束である神の国への信仰は、私たちが真摯に向き合うことを促していると言えないだろうか。信仰は信じる者に静かで快適な生の手がかりを与えるのでない。しかし、信仰によって、私たちの目的は主との一致に至る。なぜなら主の招きによって始まる信仰は今日のような困難で暗い時代にあって神の約束を見失ってならない希望に抱かれていくのでないだろうか?

布池だより 2017年 6月号 巻頭言

 

六月の聖性

フェルディマール・バカリサ・ファミニアラガオ

六月はイエスの聖なる御心に献げられた月です。
六月の第一日曜日には聖霊降臨を祝うのですが、あのときイエスは言われました「聖霊を受けなさい。御父が私を遣わされように、私はあなた方を遣わします。」この日、信者の中には堅信を受ける人もいます。

第二日曜日は三位一体の祝日です。この日の福音は神がひとり子をお与えになった程、私達を愛して下さっていること、それ故、神を信じる者は誰一人として滅びる者はなく、永遠の生命を得ることを語っています。この日、NFCCはバリオ・フィエスタを催してフィリピン独立を記念し、また(布池教会守護聖人である)聖ペトロ・聖パウロの祝日を祝います。

第三日曜日はキリストの聖体の祝日です。福音の中で主は父なる神から生命を受けていること。従ってキリストの御体を受ける者は誰であれ父なる神から生命を受けるのだと述べておられます。この日、日曜学校のたくさんの子ども達が初めて聖体の秘跡を受けます。

第四日曜日は「全世界に行き福音を宣べ伝える」時です。それは困難な骨の折れることでしょうが、福音の中でイエスは恐れるなと三度、悟して下さっています。

初夏の空気を感じ始めるこのとき、これらの祝日に思いを寄せてみましょう。弟子たちや殉教者たちに倣い、聖性への呼びかけに応えるにふさわしい者となれるように。

全ての人の心にイエスの御心が住まわれますように!マリアの汚れなき御心よ、私達のためにお祈りください。

Holiness in June

The month of June is dedicated to the Sacred Heart of Jesus. On the First Sunday of the month, we celebrate Pentecost, wherein Jesus said: “Receive the Holy Spirit. As the Father has sent me, so I am sending you.”

Some faithful will receive the Sacrament of Confirmation on this day.

The Second Sunday of the month is Trinity Sunday. The Gospel on this day shows us how God loved the world by giving His only Son so that everyone who believes in Him may not perish but may have eternal life. On this day, NFCC will commemorate Philippine Independence and celebrate the Feast of Saints Peter and Paul (Parish Patrons) by having a Barrio Fiesta.

Third Sunday of the month is the Feast of Corpus Christi. Jesus said in the Gospel that He draws His life from the Father, so whoever eats the Body of Christ will also draw life from Him. Many children in our Sunday School will receive for the first time the Sacrament of Holy Communion on this day.

The last Sunday of the month is the time to “go into all the world and proclaim the good news.” It might be difficult and challenging but in the Gospel, Jesus tells us three time not to be afraid.

As we begin to feel the warmth of summer, let us reflect on the Feasts we celebrate. Let us be witnesses like the apostles and martyrs so that we may be worthy of our Baptismal call to holiness. May the Heart of Jesus live in the hearts of all. Immaculate Heart of Mary, pray for us.

布池だより 2017年 5月号 巻頭言

 

マグニフィカートの風景

アウグスティヌス 太田 実

 「マリアの賛歌」はルカ福音書でエリザベトの歓迎と祝福に応えて聖母マリアが歌ったものです。新共同訳聖書では「わたしは神をあがめ、わたしの心は神の救いに喜び踊る」という言葉で始まります。

聖母賛歌は別名「マグニフィカート」とも呼ばれます。この歌が、ラテン語のマグニフィカートという言葉で始まるためです。地震の大きさのことをマグニチュードというように、この言葉は直訳すると「大きくする」です。

しかしなぜ「大きくする」ということが「あがめる」という意味になるのか不思議に思い、調べてみると、ルカ福音書にはこの言葉が字義どおりの意味で使われている箇所が一カ所ありました。

「近所の人々や親類は、主がエリザベトにそのあわれみを大きくされたことを聞いて喜び合った。」(1:58)

年老いたエリザベトが子どもを授かって、無事に出産できたため、主がエリザベトになさった偉大な業を周囲の人間が喜ぶ様子が描かれています。

マリアご自身も、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(1:49)と歌うのですから、主がなさる偉大な業に接するときの人の反応を、マグニフィカートは示しているといえます。

「主をあがめるのは、マリアばかりではありません。血肉に従えばイエスの母はただお一人だけ、しかし、神のみ言葉に聴き従うことによって、信仰の内に私たちもイエスを宿すことができる」と聖アンブロジウスは言います。

私たちも、神をあがめるために、マリアの魂を持つことができますように。私たちひとりひとりと共に主がいつもいてくださり、その存在が大きくなっていきますように。神によって喜び踊るマリアの心がひとりひとりの内にありますように。

バッハのマグニフィカートをYoutubeでお聴きいただければ、この歌が喜びに満ちたものであることを実感できます。第一曲と最終曲がつながり、まさに感動と賛美のエンドレスソングです。