布池だより 2021年 2月号 巻頭言
四旬節に際して |
ミカエル・ヨゼフ・マリア 平澤忠雄神父 |
去年は2月26日に四旬節が始まったが、今年は2月17日 (灰の水曜日)に始まる。四旬節というと特別な教会の典礼の季節であり、毎年、信者も司祭も改めて心の襟を正す季節である。「ここで笑わないとダメですよ」とはある漫才師の決まり文句だが、ここで心を改めないと、ついつい「教会の季節で何ということはないね」で過ごしてしまい、 何でカトリックの信者になったのか、 なぜ日々回心して主への愛に目覚めて心を新たにしなければならない人生を選び取ったのか、さっぱりわからなくなる。神言会士のアブリ神父様が1999年に那須のトラピスチン(厳律シトー会)で発行された 「四旬節(聖霊の季節) の解説」 を見ると、小生のようなものでも心の様を正してこの季節に入っていかねばならないと思うようになる。 四旬節のテーマ、 または最初の呼び声はやはり「時は満ちた。 神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」である。 「イスラエルの歴史の始まりは出エジブトの40年間の荒野の旅である。」とある。この旅の招きに一人一人が応えて、自分の人生の旅をキリストへの道として生活すべきものと教える。40年という荒野の旅は、 シナイ半島を迂回して世代交代を続けて先祖の土地への旅を敢行した。 40という数字は人の一生の象徴であり、その40は神から始まった。 キリスト者の一生は人によってではなく、神の導きによって始まる。 回心は神の憐れみを乞い願うことで始まる。キリスト者は神の愛によって、 自分の日常生活のうちに主なる神が近いこと、人間の自分が生きるためには神の愛が必要であることを祈る。 神が身近におられることを知れば、 自分の生活のうちに神の言葉としるしが顕現してくる。神は洗礼の時から、すべてのキリスト者に回心の恵みを生きるための力として与えられる。それはキリスト者が神の言葉に従うためである。人はそうした全き従順と信頼によって神にまみえることができるが、それはイエスとザアカイとの出会い(ルカ19)に象徴的に示されている。そこではイエス様に近づくことは、まずイエス様の方からなされ、それに応える人間の願望と信頼と期待とが相まって実現している。イエス様が近づかれると人の生命と生活は刷新される。これは全ての秘跡の基本になっている。人は自分の力によるのではなくて神の恵みを受ける。それでキリスト者は四旬節中、 毎日の生活を神の呼びかけに対する応答とみなさなければならない。 かくして神の力を体験し、その清めと解放の業から真の道を歩めるようになる。神の言葉こそ私たちの心の導きである。初代教会のキリスト者は聖体を人の心と体を変える力として求め受けたのであった。40日間の霊的修行で教会は信徒を導いてくれる。 その期間に信者は自分の生活のうちに神の愛が必要であることに気付き、自分自身を回復するのである。 四旬節の典礼は自分の救いの恵みを再発見するときである。 私が長崎の友人の神父から招かれて黙想会に呼ばれた時に引用した俳句を結びとしたい。 「己が身に秋を染めぬくとんぼかな」 堀麦水(1718-1783) |